たまらない愛情

最近、ふっと気が遠くなるような位幸せだなーと感じる瞬間がありました。
たまらなく、すべてが愛しい!みたいな感じ。

その時は、ただ電車に乗っていて。
目の前いる知らない人も、縁あって私に関わってくださっている人も、
各々の場所で自分の信じる道や与えられた役割を
各々のやりかたで、いろいろあるかもしれないけど全うしようとしているわけで、
そう考えたら、もう、この瞬間が素晴らしくて、
もうそれでいい。いてくれてありがとう!みんな!

みたいな。

字面にすると少しヤバい匂いがしますが、
一瞬そういう感覚がやってきたのです。

誤解が無いように。
基本的に私、腹黒な上に自己中心的なので、
無条件の愛とか無理ー。集団行動とか無理―。
誰とも関わらず引きこもっていた方が楽。
と、素で思っているタイプです。

前日に「人や物との繋がり」という話をクラスでしたばかりだったからかもしれません。
何かとの関わりにおいて、否定的なエネルギーがあるとそこに引きずられがちなので、
上辺だけでは意味がありませんが感謝というものに転換できると楽ですね。
そのための練習として、私達の祖先や先生やそのまた上の世代に対して意識を向け、感謝をする。
というアクティビティが2年前リシケシの500時間のYTTでありました。
ガンガにラドゥーのようなものとマントラを捧げ先祖供養をするというものでしたが、
じいちゃんもばあちゃんも、孫がガンガのほとりで自分たちのことを考える日がやってくるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
まぁ、何かしら自分と関わりがあるものに否定的ではない思いを馳せるというのはよいものです。
じいちゃんばあちゃんも喜んでくれていたと思いたい。

ヨガにしたって何にしたって、
「目の前のものに丁寧に向き合う。」
ということが大切なのだけど、
それはその裏に何かしら私達を私達たらしめる意識が潜んでいることに気づく為の儀式というか、
前座的なものなんじゃないかと思うのです。

例えば、「いただきます」というのは、
ご飯を作ってくれた人にありがとうという意味だけではないですね。
そこにその食べ物が揃うのにたくさんの人が介在していたり、
天候の条件や色々なタイミングが重なっているから目の前のものが出来上がっている。
「これ、その全て」が有り難い。その私達の想像を超えた全てに感謝。
という意味だと思います。
だからその儀式とかマントラ(ここでの「いただきます」)をまずはやってみて、
そこにチューンを合わせて、その背景を感じていくことが大切なんだと思っています。
その「背景を感じる」というプロセスがないと、
ただのマナーとか、挨拶という形だけのものになりがち。
もちろんしないよりましなんだけど、もったいない気がするなぁ。

その全て、というのが信仰によって神になったり仏になったりするんでしょうね。

実家に仏壇はありますが、特定の信仰を持ち合わせていない私。
それらを肌でありありと感じたのは、インドに初めて行ったときからです。
現地の友人が、朝、お店を空ける前にお祈りを欠かさない。というのは、
祖母が毎朝お経をあげるのに似ている。と思いました。
トレーニングで、初めてバクティヨガ(信愛のヨガ)の存在を知って、
ちょっと理解できない。とも思いました。

それは、あまりに日常にあるもので見逃していた、
無意識の中にあるものなのかもしれないなぁ。
また、「インドの光」でも読み返すと気づきがありそうな気がします。

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はじめてのインド旅行、タージマハル(お墓)にて写真撮影大会の一コマ。
楽しそうだけど、なんか今考えると罰当たりな気がする。。。
とりあえず、今年のお盆は実家のお墓参りに行こうっと。