アーユルヴェディッククッキングツアーその後⑤興味と好みの対象な

只今深夜2時半過ぎ。

近くでパーティの残党が騒いでいて、その影響でゲストハウスの中の誰かがずっと話してて眠れません。どうにか寝ようと、指やトイレットペーパを耳に詰めたり、数を数えたりと試行錯誤した結果目が覚めてしまい、あきらめて思いつくことをつらつら書き出してみることにしました。

昨日、ポリッジを食べにカフェに行きました。1人で本を読んでいたら、
“こんな儀式をやるから是非おいで”

と、見知らぬ人にフライヤーを渡されました。それが前述しましたパーティ、シャーマニックセレモニーだったのですが、まぁ全く興味が出なかった私。後で聞くと、ハーブを飲んでハイになる類のものだったみたい。

そこそこインドを旅していますが、こういう類のものとはとんとご縁が無く、実は売人と遭遇したことすらありません。友人曰く、”興味が無い”、というオーラが四方八方に出ているようです。興味云々の前に匂いがダメ。カフェ等で吸ってたな。って所に入るだけで気分が悪くなる。タバコの匂いは大丈夫なんですけどね。
瞑想に入る為に使う手法もあるらしいけれど、なら別に瞑想に入れなくてもいいかなと思ってます。(でも使う方々を否定しているわけではありませんよ。あくまでも私の身体においての話です)。私の興味の対象がちょっと特殊で、土台からがっつり積み重ねたいと思うタイプだからかもしれません。

例えば、どこでもドアで富士山頂に行くのと、徒歩で一合目から行くのどっちがいい?と聞かれたら後者を選びます。肉体も精神も弱っちいので登頂できないかもしれないけど、なら登れた所までで満足できる自分でいたい。やせ我慢と呼ばれるかもしれませんが、便利さにあまり惹かれないというか。ヨーガに対する興味も同じで、ある意味マニアックなんでしょうね。もっとラクな方法があるかもしれないのに、あえてそれをしたくない。日常に発生するその他の選択を分析しても、効率の悪さ、泥臭さを愛している所があります。もがく自分が嫌いじゃない、むしろ好き。Sなのか?Mなのか??よくわからない己の精神構造。

だからストイックですね、とよく言われるのかもしれない。本人は好んでやっているのでそういった自覚はありませんが、そういった波長は生み出しているようです。前世を見てもらった時には苦行者とか修道女って言われたし。

こちらに来てから改めて感じるのは、バイブレーションやら微細な事象を気にする割に、自身の発してる言葉という波長に無頓着な人が多いこと。残念なことにヨーガの先生や練習者にそういう傾向が多い気がする。もちろん自分も含めてです。そういう話をしなくてはいけない場が多いから仕方ないのかもしれませんが、なーんか残念。そんな自分があまり好きじゃない。言動の整合性が取れなくなるくらいならいっそ言葉は要らないと、かれこれ数年間思っていたんです、が!実は、今回の旅で、この一件に私の中で決着がつく出来事がありました。

ヨーガに、またはティーチングに言葉は必要か否か?というディスカッションが湧いて出た時、インド人、フランス人、カナダ人、日本人で喧々諤々、これ、どうまとまるのかな?と観察していたらば、その中にいたババジが皆を包み込むような柔らかい眼差しで、

“Whichever”

の一言を放ちました。

単に個々の好みの問題なんですよね。言葉は要らない派の私は、つくらず、気取らず、背中で、目で語る彼のスタイルはかっこよかった。

また、言葉は必要派の人も彼のスタイルは言葉を使っているということで、それなりに納得するポイントを見つけたようです。双方納得した所がまた面白い。

問題をこねくり回さないこと。

あんな眼差しが自然と出てくる質に近づけるように、目の前のことに精一杯向き合っていこうと改めて思いました。

なんかオチが無いのに長くなっちゃったな。

鳥が鳴きだしました。ぼちぼち夜が明けそうです。